2013年11月30日

イザヤ書31章

<朝のディボーション>  1節、「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。」イザヤがこの預言を語った時には、同盟はすでに具体的に動き出していたという。ユダから派遣された使者たちは、同盟締結間近であることに湧き立ち、エジプトの馬や戦車の助けに期待した。しかしイザヤは、そういう人間のはかりごとがどんなに賢くても、無益になるのだ、と語る。31章は、エジプトとの同盟へのさばき、イスラエルの神の唯一性、主に立ち返る勧めとアッシリヤへの裁きの宣告と、30章のメッセージの繰り返しとなる。  ユダの指導者は、エジプトの強力な軍事力「馬、戦車、騎兵隊」に守られようとした。それは何よりもの最善に見えた。しかし神は、「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない。主が御手をのばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる」(3節)という。 何かに行き詰まるような窮状にあって、どんな応答が心の中に湧き起こるのかに注意したい。「御手をのばす」神にこそ心を向ける、問題解決の鍵がそこにあると頭を回すことができるであろうか。いや、すぐに計算して、神以外の身近な最善の助けに飛びつこうとするのだろうか。神は、救おうと決意された者を、どんなことをしてでも救い、守りぬかれる。神の御力を、私たちは知らなければならない(4節)。神以外のものに、まず具体的な助けを求め、そんな愚かな心の習慣から早く脱却することだ。 <夜のディボーション>  既に前の章で、神は約束しておられる。もし、私たちが主を尋ね求めるならば、神はその祈りを聞かれると(19節)。また、もし私たちが導きを求めるならば、神は私たちを導いてくださると(21節)。また、神の満たしと神による実りを求めるならば、神はそうしてくださる、と(26)。さらに、私たちの悲しみいたんだ心に、喜びを与えてくださる、と(29節)。実に求められているのは、この神に心を向け、反逆を深めているこの神に立ち返ることである。 もちろん、世の中に神と名のつくものはたくさんいるだろう。どの神にでもよいから立ち返ればよいというのでもない。唯一まことの神はただお一人である。人間が、銀や、金で鋳造した神が神であるわけではない。誰でもそんな簡単なことが分からないわけではないだろうが、人はその愚かしい呪縛から離れられないでいる。神は霊であっても、人間が手で作ったものに入魂されることはない。神は至高である。神はこの世界を創造し、支配し、保持しておられる。その神がこの世界の中に納まりきるなどありえぬことである。神を小さく、人間の手中の中の存在と考えるからこそ、私たちは神を信じることができないのである。神は創造主であり、王の王である。その神がアッシリヤを滅ぼされるという(8節)。ここでは、アッシリヤは、最も強い世の権力の象徴として語られている。人間的な強さの上にある神の強さにこそ、目を留めていくのが信仰者の歩みである。





Posted by pzrjsbojnw  at 06:08 │Comments(0)

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